【歴史小説】暁の鐘の音(第五回)  本郷新二

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暁の鐘の音(第五回)        本郷新二

次の日の午後—。
激しい雨が打ち寄せる荒波のように周期的に軒を叩きつづけている。未明から降り始めた雨が、急に強くなっていた。
惣右衛門が雪見障子をすこしあけてみると、軒から落ちる雨が滝のようだ。
雷がだんだん近づいてくる。
与六がまだ、雲洞庵から帰っていない。
「お前様、与六は大丈夫で…」
と、おいとが言いかけた時だった。ひときわ白い稲妻が閃き、間髪入れずにピシャッと雷鳴が響いた。幼子たちが、わあっと、おいとにしがみついた。一瞬身を固くするほどの、地を裂くような衝撃だった。
おいとが不安げに惣右衛門を見た。
突然、引き戸が乱暴に開き、ずぶねれの伊平左がとびこんできた。
「惣右衛門はいるかっ!」
「どうした?」
「与六が水のなかに取り残されたっ! 登川が溢れたんだっ」
「なんだって!?」
惣右衛門が目をむいた。
「どこでだっ?」
「三ツ屋の先の神社だ」
「わかったっ。おいと、行ってくるっ」
「お気をつけて」
蓑と笠をまとった惣右衛門と伊平左は、土砂降りのなかに飛び出した。
激しく降り続ける雨のなかで、伊平左ががなった。
「神社に取り残された熊五郎んとこの倅と娘を助けに行ったら、急に水かさが増して戻れなくなったそうだっ」
二人は、笠を手で掴んで急いだ。

二人が西泉田の先の土手に着く頃には、雨脚もかなり弱まっていた。西の空も、いくぶん明るくなっている。
土手に立って指示を出している要之輔をみつけると、惣右衛門は叫んだ。
「どこだっ?」
振り返った要之輔が、半町ばかり先の神社の大ケヤキを指さした。
太い枝のうえで、与六は娘と幹を一緒に抱えていた。枝のすぐ下まで水が上がってきている。与六の上の枝には、吾吉が泣きながらしがみついていた。与六は、二人を交互に励ましている。
社殿は欄干まで水に浸かっていた。まわりの木々は、茶色の濁流に激しく揺られている。しかし、与六たちが登っているケヤキの太く、ビクともしない。
「さすがに与六だ。よくぞあのケヤキを選んだものだ」
と要之輔がうなった。
「うむ。あの木の上なら、まず大丈夫だ」
と伊平左も肯いた。
二三年に一度、この川は氾濫する。そして、あの枝以上に、水かさが上がったことは一度もない。そのことを知っている惣右衛門は、内心ほっとした。
「もうこれ以上降らんだろう」
空を見上げながら要之輔が言うと、
「水を少しずつ魚野川に戻すぞ。土手を幅二間、高さ三尺ほどけずれ」
と指示した。
そのとなりで、
「与六っ。そこでじっとしていろ! いまから助けに行くっ」
そう惣右衛門が叫ぶと、こっちを向いた与六が大きく肯いた。
「どこかに川舟はないのか?」
「熊五郎たちが上から舟を出すことになっている」
「そうかっ」
と言うなり、惣右衛門は走り出した。

熊五郎が、数人と川舟を水に出していた。
「熊五郎、儂も行く!」
「おぉっ惣右衛門。すまん。馬鹿息子のせいで…」
「そんなことはいい。水もだいぶ落ち着いている。行くなら今だ」
「そうだ熊五郎。俺もいく」
追ってきた伊平左が言った。
「有難てえ。頼む」
三人は、蓑を脱ぎ捨てて川舟に乗り込むと、岸を離れた。
やがて―。
無事三人を救出した川舟が、要之輔らのいる岸に着けられた。
先に岸に上がった惣右衛門に、熊五郎の娘、吾吉の順に抱え上げられ、与六が岸に片足を着けたときだ。舟が、どんっと揺れた。流木が当たったのだ。
足下をすくわれた与六が流れに投げ出された。水面は穏やかでも、まだ流れが速い。水が魚野川に流れ込んでいるのだ。与六は、あっというまに流されていく。
それを見た熊五郎が、すぐさま飛び込んだ。必死に泳いで与六を追いかける。ほどなく与六をつかんだ熊五郎は、目の前に垂れ下がっていた柳の枝をつかむと、与六を力一杯引き寄せる。
「与六っ、その枝につかまれっ!」
二人はつかんだ枝をたぐり寄せながら、やっとの思いで足のつく浅瀬に辿り着いた。
「熊五郎、有難う。あのまま魚野川に出てしまえば助からんかった」
へたり込む熊五郎に、惣右衛門は礼を言った。
「礼を言うのは俺のほうだ。与六がいてくれなければ、今頃あいつらは…」
と、熊五郎は泪をぬぐった。
「与六、大丈夫か?」
突然、若い声がした。
惣右衛門が振り向くと、嘉平次が与六の背に手を置いて話しかけていた。雲洞庵からの帰り道での出来事の一部始終を、喜平次は見ていたのだ。
「はい。喜平次様」
「無事でよかった。ほんとうによかった」
喜平次は、まるで自分の弟が助かったかのように喜んでいる。
そんな喜平次の様子を、熊五郎と惣右衛門は驚きの表情で見つめていた。
目を奪われたのは、二人だけではない。その場にいた誰もが瞠目していた。
(つづき)

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