【歴史小説】暁の鐘の音(第二回)  本郷 新二

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暁の鐘の音(第二回)

「おかえりなさいませ」
城内で一日の記録をすませ、帰宅した惣右衛門を、妻のおいとが出迎えた。
「のちほど、お伝えすることが」
「うむ」
いつもに増して疲れを覚えていた惣右衛門は、そのまま湯浴みにむかった。
汗を流し、さっぱりすると、いくぶん元気になった。
チャノマ(板の間)では、幼い与七と与八がじゃれ合っている。
座敷をのぞくと、与六が書架に向かって、なにやら読んでいた。
「ずいぶん熱心だな」
「あ、おかえりなさい。父上、『国は人を以て本と為す』という詩をご存知ですか。今日、和尚様に教えていただきました」
瞳も額も輝いて見えるのは、蝋燭の明かりのせいだけではなかった。雲洞庵の講義に出るようになってから旺盛になった与六の読書熱には、存達も惣右衛門も驚かされていた。
「うむ…?」
「唐の詩人のものだそうです」
多くの書物を読んできた惣右衛門だったが、聞いた覚えがない。
「国は人を以て本と為す。
猶樹の地に因るが如し。
地厚ければ、樹扶疎たり。
地薄ければ、樹憔悴す。
其の根を露わすを得ざれば、
枝枯れて子先ず墜つ。
陂を決して魚を取るは、
是れ一期の利を取るなり。」
与六は高揚した声で朗読した。
国の根本は民である。それは樹木が大地に根ざしているのに似ている。大地が豊かであれば、木は多くの葉を茂らすが、大地が痩せていれば、木は勢いを失う。根を潤すことができなければ、枝は枯れ葉が落ちてしまうのだ。同様に、たとえ堤を破って魚を捕ったとしても、結局は一時的な利益を得るだけで虚しいことだ、というような意味である。
「…うむ」
どこか、身になじんだ感覚のする詩である。武士といえども、農民と同様に田畑を耕すのがならいの上田庄が、そう思わせるのかもしれない。
うなずきながらも、しかし、惣右衛門には引っかかるものがあった。
目上や年上の者を尊び敬うという儒教の教えは惣右衛門も与六の年頃から繰り返し学び、いまも自らを律している。
しかし、この詩は、国を豊にし、国主を支えるのは民である。だから、国主は民の幸せを第一に考えねばならない、と言っている。これは、君主が学ぶ思想ではないか。おそらく若き城主喜平次のための教材なのだろう。そんな教えに、与六が興味をもったのである。
詩の言わんとすることはわかる。しかし、樋口家は人の上に立つ家ではない。主君を尊び、いかに仕えるかを学ぶだけで充分である。だから、こんな思想を持つのは、かえって危険ではないか。
惣右衛門は、一抹の危惧を覚えながらも、しかし、なぜか否定しきれなかった。
乱世は、裏切りも下克上も、正当化される時代だ。これまで正しいとされてきた事も、不確かなものになってしまっている。明らかに、時代は移り変わろうとしている。
(このように何事も不確かな時代は、家臣であっても、領主と同じ目線でものを見、事に当たる必要があるのかも知れん…)
と惣右衛門は思った。
「さすがに越後国一の雲洞庵よのう。奥深いことを教えてくれる。…ところで与六」
「はい」
「国のことはさておき、人は何によって立っていると思う」
「はい…」
「父が思うに、家族や友人や周囲の人々、身体をつくり働く糧となる食物、そして学問によって支えられている。なかでも学問は、人々のために役立つ術も、食物を得る手だても教えてくれる。国の礎は民かも知れぬが、人の礎の一つは学問だ」
与六はじっと聴いている。
「書物は人を養う。できるだけ読んでおくといい」
「はい」
凛とした声で応えると、与六は、ふたたび書架にむかった。

惣右衛門は、遅い夕餉の膳についた。
「お疲れ様でした」
一日の労をねぎらいながら、おいとは、囲炉裏にかけた鍋から汁をよそった。
「お前様」
「うむ」
「昼過ぎに、飯山の三左が訪ねてきました」
「…三左右衛門殿が?」
椀を手に、惣右衛門が繰り返した。
飯山というのは北信濃にあるおいとの実家、泉家のことである。縮の調達のために、十日町、塩沢に寄り、小千谷方面に向かう途中、立ち寄ったという。
「実家でなにかあったのか?」
「じつは」
おいとは居住まいを正した。
「内密のことなので、あえて書状にはせず、口頭でお前様に伝えてほしいと」
「うむ」
「このところ武田方の密使が頻繁に飯山城下に入り、主だった家臣に接触しているそうです。もちろん武田方への取り込みが目的です。長年にわたり謙信公の後見で安泰だった北信濃でしたが、三年前に織田武田同盟が成ってからのちは、武田方の越後国進攻の手を強めてきました。いまの所、飯山城の結束に揺るぎはないものの、なかには心は揺らいでいる者もないわけではないようです」
「そこで、上田庄の動向を知りたいというのだな」
「はい」
惣右衛門は、しばし箸を止めて考えた。
おいとが生まれ育った飯山は、越後国と信濃国の国境にある。
天文二十二(一五五三)年、上杉謙信と武田信玄が、信州川中島で合戦を始めた。発端は、信玄の攻撃を受けた信州葛尾城主村上義清が謙信に援軍を要請し、謙信がそれに応えて出兵したことである。
その後、合戦がくり返えされるたびに、北信濃は、両軍のせめぎ合いのはざまで多くの血を流してきた。特に、永禄四(一五六一)年の合戦では、武田の軍が野尻城まで攻め入り、泉家をはじめとして国境の諸将は、辛酸を舐めたのである。
こうした度重なる戦の過程で、上杉方から武田方へ鞍替えする者も少なくなかった。泉家もまた、思うところがあるのかもしれない。
「義兄殿が、わざわざ三左右衛門殿を寄こされた、と言うことは、迷っておられる、と言うことだな」
「わたしも、そう思います」
「それだけ武田方の揺さぶりが激しいと言うことか…」
おいとは、惣右衛門が差し出す椀を受け取りながら、
「三左は、小千谷から長岡まで足を伸ばして、帰りに、また寄るそうです」
十日ほどのちになるという。
「わかった」
と言った惣右衛門の頭から、存達の話がどこかへ行ってしまった。
(そういえば…)
惣左右衛門は思い起こしていた。
紅葉がさかりの昨年十月末のことであった。上州赤城の友から、雪が降る前に遊山に来ないか、一緒に伊香保の温泉にでも行こう、という誘いの手紙が来たのである。薪炭係という役柄、半年にもおよぶ長い冬を前に、忙しい日々を過ごしていた惣右衛門は、次の機会を約束する手紙を送って、ふたたび役目に忙殺してしまった。
長年往来のなかった友からの、久しぶりの音信であった。そのときは、ただ懐かしかっただけだが、今にして思えば、どうやらそれだけのことではなかったのかもしれない。
惣右衛門は腕を組んだ。

(つづく)

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