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水島あやめを
ごぞんじですか?

水島あやめ(本名:高野千歳、たかのちとせ)は、
大正後期から昭和初期にかけて活躍した
新潟県南魚沼市出身の文筆家です。

大正13年、映画『落葉の唄』で
日本で最初の女性映画脚本家の一人としてデビューしました。
30本ほどの映画脚本を手掛けたのち、児童文学に転向し、
『小公女』の翻訳本や少女小説集『友情の小径』など
数多くの作品で人気を博しました。

プロフィール

水島あやめ

脚本家・小説家(明治36年7月17日~平成2年12月31日)

明治36(1903)年7月17日新潟県の裕福な家に生まれ、大正10年に上京。日本女子大学在学中に本格的に小説を書き始め、映画会社の小笠原プロダクションで脚本を学ぶ。大正13年に書いた脚本『落葉の唄』が映画化され、わが国初の女流脚本家としてデビュー。15年松竹キネマ蒲田撮影所に入社、30本近くの脚本を書いたが、のち児童文学に転向。昭和14年『小公女』を翻訳、15年少女小説集『友情の小径』を発表、その叙情性と感傷性で少女たちに人気を博した。ほかの作品に『母への花束』『乙女椿』などがある。
 ―出典:『日本初の女流脚本家・少女小説作家 水島あやめの生涯』

略歴

写真/左右とも昭和9年撮影。所蔵・高野恵美子氏
写真/左右とも昭和9年撮影。所蔵・高野恵美子氏

故郷・南魚沼が生んだ閨秀作家

水島あやめ(一九〇三~一九九〇)

― 脚本家・小説家 ―

文責・因幡純雄 (上田史談会会誌「魚沼」第42号掲載)

▼一九〇三(明治36)七月十七日、南魚沼市大月(旧三和村大月)に、父高野隆雅、母サキの一人娘として生まれる。本名・高野千年(ちとせ)。
▼一九一〇(明治43)年四月、大月小学校入学。
▼一九一六(大正5)年四月、六日町高等科で一年間学ぶ。
▼一九一七(大正6)年四月、新潟県立長岡高等女学校入学。四年間寄宿舎生活を送る。
▼一九二一(大正10)年四月、日本女子大学校師範家政科に入学。母を引き取り、雑司ヶ谷で二人暮らしを始める。大学四年生の秋、小笠原プロで映画の脚本家デビュー。
▼一九二五(大正14)年三月、同大学卒業。松竹蒲田撮影所脚本部に見習い所員として入る。翌年一月、正式入社。蒲田脚本部で唯一人の女性脚本家として活躍。
▼一九三五(昭和10)年三月、松竹蒲田脚本部退社。小説家に転じる。主に少女小説作家として活躍。
▼一九四五(昭和20)年五月、故郷・六日町伊勢町に疎開。
▼一九五五(昭和30)年六月、神奈川県片瀬海岸へ移転。
▼一九九〇(平成2)年十二月三十一日、千葉県柏市の有料老人ホームで永眠。享年八十七歳。

―出典:脚本家・小説家 水島あやめの略歴(上田史談会会誌「魚沼」第42号掲載)

脚本家

水島あやめ

昭和3年「明け行く空」記念写真(水島あやめは前列右から2番目)

水島は大正十三年十一月、日本女子大学四年の時に、映画「落葉の唄」(小笠原プロ)で脚本家デビュー。日本映画界における女性脚本家の先駆者の一人として注目される。二作目の「水兵の母」は東郷平八郎はじめ海軍省の全面協力で製作。大正天皇・皇后両陛下が天覧、皇太子殿下・妃殿下が台覧されるなど話題を呼び、国民的大ヒットとなる。女子大卒業後は松竹キネマ蒲田撮影所の脚本部に入り、唯一人の女性脚本家として活躍。昭和十年に退職するまでに二十八本(生涯で三十二本)の映画の原作・脚本を書いた。当時、監督・脚本家・撮影技師など映画製作の中核分野は男性だけで占められており、女性の脚本家として初めて採用されたのが水島あやめだった。女性蔑視や差別的扱いを受けながらも、母もの・少女ものなどの第一人者となる。主なヒット作は、「お坊ちゃん」「母よ恋し」「空の彼方へ」「明け行く空」「暴風雨の薔薇」「輝け少年日本」などがある。

―出典:脚本家・小説家 水島あやめの略歴(上田史談会会誌「魚沼」第42号掲載)

小説家

水島あやめ

水島あやめの作品の数々

松竹蒲田を退社すると、小説家に転じる。戦前は大衆雑誌の全盛期で、講談社系の雑誌「少女倶楽部」「少年倶楽部」「幼年倶楽部」、「講談社の絵本」などに作品を数多く発表。「小公女」「小公子」などの海外名作の翻訳翻案、婦人向けの名婦物語なども手掛けた。一冊の号に二作品が掲載されるなど、人気の物語作家だった。戦後は疎開先の故郷・新潟県六日町で執筆活動を続け、戦後の出版ブームで東京の出版社からの執筆依頼が殺到、断るのも大変だったという。昭和二十年から三十年までの十年間に、講談社・偕成社・ポプラ社などから約三十冊の少女小説や海外名作の単行本が刊行された。主な作品「久遠の夢」「秋草の道」他。

―出典:脚本家・小説家 水島あやめの略歴(上田史談会会誌「魚沼」第42号掲載)

水島あやめと
女性史

写真/左右とも昭和9年撮影。所蔵・高野恵美子氏
写真/左右とも昭和9年撮影。所蔵・高野恵美子氏

水島は明治三十六年(一九〇三)に生まれ、平成二(一九九〇)年に没した。二十世紀は「女性の世紀」と言われるように、女性の人権獲得と社会進出、男女同権が進んだ。大正期に高等女学校と女子大学で学んだ数少ない女性の一人だった水島は、同時代の女性や少女たちに寄り添い、映画脚本や小説を書き続けた。そして物語だけでなく、自らも女性の経済的自立と社会的評価の確立に取り組んだ。十八歳で母親を引き取り、他人の世話にならず生きるために経済的な自立を目指す。病床の母との暮らしを貫き、三十年あまり介護して看取ったあとは、有料老人ホームに入居して余生を送る。そして今から三十年余り前に「終活」を実践している。幾多の苦難を乗り越え、脚本家・小説家という文筆の仕事で自立し人生を全うした水島あやめの生涯には、現代へのメッセージが込められている。

―出典:脚本家・小説家 水島あやめの略歴(上田史談会会誌「魚沼」第42号掲載)

紹介動画

活動写真弁士の佐々木亜希子さんに、水島あやめを動画で紹介いただきました。

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これまでに開催した講演・イベント、今後開催する講演・イベントの情報を掲載しています。

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生い立ちから脚本家時代・小説家時代を経て晩年まで、水島あやめの生涯の軌跡をたどります。

映画脚本・少女小説・訳本・随筆など、水島あやめの残した数多くの作品を紹介します。

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