【歴史小説】暁の鐘の音(第四回)  本郷新二

※当サイトの内容、テキスト、画像等の無断転載・無断使用を固く禁じます。お問い合わせはこちら

暁の鐘の音(第四回)             本 郷 新 二

数日が経った。
六月の半ばを過ぎると、上田庄の民は一段落する。田植えも終わり、田の草も、まだそれほど伸びていない。一年のうちで、一番手のかからない時期だ。
塩沢の辻に、「伊乎乃(いおの)や」という一膳めし屋があった。「伊乎乃」とは魚沼盆地のことで、現在では「魚野」と表記される。
山間の里といえども、越後国府中と上州関東をつなぐ大路である。縮という地場の産物もある。人や物の往来が多いから、こんな商売も成り立つ。
しかし、この日は暖簾がさがっていなかった。
「伊乎乃や」には、通りからは見えない裏口がある。そこに十二畳ほどの離れがあって、すでに膳も酒も並んでいた。
惣右衛門は、そこで大島要之輔、五十嵐伊平左とともに人を待っていた。
やがて、店の主の利七に案内されて、雲洞庵住職通天存達と今成卓之丞が入ってきた。思川村にある雲洞庵の末寺天昌寺での用事を済ませてきた帰りであった。
「おだやかな陽気がつづいて結構なことですな」
という卓之丞に、
「このまま大雨が降らないでくれると、私も楽なんですが」
と大島が笑った。
一座がそろったことで、盃が合わされた。
一見、不思議な取り合わせだが、じつは、みな雲洞庵の前住職北高禅師のもとで机を並べた者たちである。
北高禅師は、上杉謙信と武田信玄が、ともに帰依した高僧である。
その禅師が、信玄に乞われて信州佐久の龍雲寺に移ったのは、永禄三(一五六○)年のこと。雲洞庵を去る時に、教えを受けた者たちで別れの酒宴を催したのだが、その時、意気投合したのがこの五人であった。ほかに、店の主の利七と女将が加わって、機会をみつけては、こうして会合を持っている。
一同は、このあつまりを「しみわたり塾」と呼んでいる。
「しみわたり」とは、雪国特有の自然現象をいう。早春の三月の冷え込んだ朝は、前日に溶けた積雪の表面が凍り、人が乗っても跳ねても足が埋まることはない。田畑であろうと荒れ地であろうと、道なきところを自由に行き来できるのである。雪国の子どもたちは、この「しみわたり」が大好きである。
既成の観念に囚われずに、自由に見聞きし行動するー。
これが「しみわたり塾」の心であった。
だから、会合では玄関先で下足を脱ぐ時に肩書きもまた、脱いでしまう。そして、互いに心許して語り合うのだ。
とはいえ、子どもの集まりにも長はいる。このあつまりの場合、中心になっているのは、やはり通天存達であった。
たしかに、一番の年長であるし、しかも雲洞庵住職であるから見識においても、一目置かれる存在である。しかし、仲間にとっての存達の魅力は、そこではなかった。
存達は上田長尾家の嫡男。本来ならば坂戸城主を継いでいたはずである。しかし、幼い頃から学問を愛した少年は、世継ぎを弟政景に譲り、自ら進んで仏門に入り、北高禅師に師事した。学問の資質を見込んだ北高禅師は、若き日の存達を日本で最初の大学足利学校で学ばせた。そんな存達は、政景なきあとも表舞台に出ることをせず、若君喜平次を教育し後見することに徹している。そうした存達の生き様に、仲間は全幅の信頼を寄せていた。
戦国の世は、熾烈な情報合戦の時代でもある。
正確な情報を、いかに早く得るか―。
それが一族の存亡に直結した。
だから、情報元としての人脈は、きわめて重要で、そのための政略結婚も頻繁に行われていた。
しかし、情報の網の目を張らせていたのは武士だけではない。寺や神社などは、ある意味で武士以上に、早く正確な情報網を持っていた。全国行脚の僧も山伏も、ときには商人でさえも忍や密使だ。
雲洞庵は、越後国一の寺である。そして存達は、信玄に招かれて信州佐久に移った北高禅師の一番弟子である。北高禅師と通天存達は、頻繁に情報を交換していたから、関東から東海にかけての情報は、じつに早く、かつ正確だった。謙信にとって、上田長尾家を中心とした上田衆が御しにくかったのは、雪国ならではの固い結束に加えて、こうした独自の情報源に基づく判断と自信が、強い自主独立の気質を作り上げていたからでもあった。
「ところで利七。向こうの様子はどうだった?」
要之輔が話を向けた。
利七は甲斐から駿河、相模を巡って、昨夜戻ってきたのだ。存達の書状を信州佐久の龍雲寺北高禅師と相模にある曹洞宗本山総持寺に届けるためであったが、その足で駿河に廻り、乾物を仕入れてきたのである。
しかし、それは表向きの用事で、本当の目的は別にあった。
「へい。足利義秋様が還俗され、織田信長に迎え入れられたというのは確かなようです」
「存達殿をたずねて来た、あの男の言ったことと同じだの」
と卓之丞。
あの男というのは、先だって惣右衛門と伊平左が存達のもとへ連れて行った男のことだ。
利七が関東から得てきた情報と密かに存達を訪ねてきた山伏の情報が合致したことで、京大坂方面の動きが確かなものとなった。
「織田は、義昭殿を担ぎ上げて京に入るつもりということか」
卓之丞が呟くように言った。
「おそらくそうだろう」
「もし、そうなら天下統一の流れは、一気に織田のほうに傾くぞ」
「はい。織田の気性の激しさ、動きの早さは鬼神そのもの。駿河では、火がついたら、おそらく一気呵成ではないかという噂がもっぱらで」
盃を手に、存達がゆっくり口を開いた。
「まだ僧籍にあって一乗院覚慶と名乗られていた義秋殿が、謙信殿に京を回復してほしいという書状を送って来たのが、一昨年二月の事だったかのぉ」
「あの時のお屋形様は、越後国の内外を治めることで忙しく、動く事ができなかった。そうこうする内に、義秋殿は若狭の浅井、越前の朝倉と頼って行かれ、上杉との音信は途絶えてしまった…」
卓之丞の言葉を聞きながら、惣右衛門は、盃を口に運んだ。そして、
(そうだ。あの時点で、上杉家の天下取りへの道はなくなったのかも知れぬな…)
と思った。
「俺は、先の将軍義輝殿が松永弾正らによって殺害されたときに、もう、足利の時代は終わったものと思っていた。その足利が、いまさら織田と組んだとしても、所詮傀儡にすぎんだろう」
「儂もそう思う。足利一族では、もはやこの乱世は納められん」
それぞれが、ちいさく肯いた。
「それと、織田からの使者が、頻繁に甲斐の武田のもとに入っているようです」
と利七が言った。
織田信長が東国制覇への布石を打ち始めているらしい。
第十四代将軍足利義輝が、松永久秀らによって殺害されたのは、永禄八(一五六五)年五月。室町幕府の権力は、完全に地に落ちていた。
激動の戦国乱世の幕は、こうして切って落とされたのだ。
そして、この混乱の中から台頭してきたのが、美濃国の織田信長であった。
信長が東国への勢力拡大にむけて、養女を信玄の子勝頼に嫁がせ、同盟関係を結んだのが永禄八年の十一月。関東の今川家の動きを抑える一方で、北国の大国である越後国上杉家を牽制するためだった。
織田との同盟が成ると、武田は川中島合戦とは異なった戦略で、越後国に揺さぶりを掛けてくるようになった。
ついひと月ほど前の今年五月のこと。
北越後本庄城主の本多繁長が武田方に与し、謙信に反旗を翻して、国内が騒然とした。信玄が事前に本願寺を通じて越中の一向宗徒を動員させ、その機に乗じての謀反であった。
おいとの実家、泉家からの打診は、まさしく織田武田同盟の、この動きのなかにあったのだ。
(樋口家の再興を計るには、上杉より、勢いのある織田武田に与すべきではないか…)
惣右衛門のなかに、こんな迷いが起きるのも、戦国乱世の国境の地に生きるからこそと言えた。
ふたたび利七が口を開いた。
「こうした商売をしていますと、人の行き来と用向きというのは、自ずと分かってくるもので、このところ上田庄にもいろんな商いの者が出入りしております」
惣右衛門は、内心、はっとした。
そっと一座の顔を見回すと、みな盃や箸を手にうつむいている。彼らにも、なんらかの接触があることが想像された。
「問題は、これからどうするかだ」
と言ったあとで要之輔はつづけた。
「織田勢には、確かに飛ぶ鳥を落とす勢いがある。しかし激しすぎる」
「恨みの血が流れすぎていると、儂も思う」
と伊平左。
「それに、あの信長の気性は、上田衆には合わん」
「謙信公とは、まったく反対だからな」
と惣右衛門も言った。
「お屋形様の信念は義。自分を超えたもののために生きる事だ。この対極にあるのが利…。織田に義は見られるか…」
卓之丞が誰に言うともなくつぶやくと、存達がちいさく肯いた。
「義と利の見極めはむずかしいものじゃ」
「方丈。そこをお聞きしたい。義と利とは、どこがどう違いますか?」
惣右衛門は身を乗り出した。
「そうよのう…」
しばし半眼になった存達は、ゆっくりと話し出した。
「自分が義に立っているか、利に立っているか、それが明らかになるのは、どんな時だと思うかな」
存達が問いを返してきた。
座の空気が静まった。
期せずして、酒席が禅堂のようになった。みな自己問答しながら盃を口に運んでいる。
「利もまた義なり、と言ったら、何が見えてくるじゃろう」
存達が、さらに問いを投げかけた。
義の対極にある利もまた、義であるというのである。
この日の「しみわたり塾」は、濃い霧のなかを進むような遊びとなった。
そこへ、
「鮎が焼けました」
と大盆を両の手に、利七の妻が入ってきた。
「おぉ。これはうまそうだ」
伊平左が、ことさら明るく言ったことで、座の空気が変わった。
女将も席に加わり、それからは楽しい酒宴になった。

(つづく)

PAGE TOP