年譜
大学4年の春、小笠原映画研究所(のちの小笠原プロダクション)で、映画シナリオを学びはじめる。 8月、写真小説「街の曲」が雑誌『少年倶楽部』に採用され、初めて原稿料をもらう。このとき、初めて〈水島あやめ〉というペンネームを… 続きを読む »大正13年(1924)〔21歳〕
1月12日、映画『水兵の母』(監督小笠原明峰)の完成試写会と披露宴が、上野精養軒で開催される。 東郷平八郎、農相高橋是清、逓相犬養毅、海軍大将米内光正、床次竹二郎ら政界、軍の要人が来賓として招かれた。 1月19日、皇太子… 続きを読む »大正14年(1925)〔22歳〕
1月24日、この日発行の『蒲田週報』に、水島あやめの蒲田撮影所脚本部への正式入社が発表される。 5月1日、喜劇の大社会劇『お坊ちゃん』(原作水島あやめ、監督島津保次郎ほか)が、浅草電気館にて封切。大好評を博し、3週続映と… 続きを読む »大正15/昭和元年(1926)〔23歳〕
1月、初めての恋愛喜劇『恋愛混戦』(監督島津保次郎)が公開される。 5月、雑誌『映画時代』創刊記念脚本募集に、のペンネームで応募した脚本『久遠の華』が当選するも、映画化は実現しなかった。 7月、雑誌『料理の友』(大日本料… 続きを読む »昭和2年(1927)〔24歳〕
1月、日本女子大学機関紙『家庭週報』に、一面を割いてあやめの実績と近況を掲載。「私達桜楓会員の非常な喜び」と紹介される。 2月、『故郷の空』(監督大久保忠素)が公開。 5月、『鉄の処女』(監督大久保忠素)が公開。 6月、… 続きを読む »昭和3年(1928)〔25歳〕
5月、『明け行く空』(監督斎藤寅次郎)が、浅草帝国館にて公開。 雑誌『少女の友』に連載された新井睦子の少女小説の映画化。フィルムはほぼ完全な形で現存し、挿入歌の楽譜も見つかっている。 8月、簡易保険の宣伝作品『親』(監督… 続きを読む »昭和4年(1929)〔26歳〕