児童映画の夢と現実

2014年01月12日 蒲田脚本部

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1929(昭和4)年の水島あやめと映画にまつわる話題をもうひとつ。それは「児童映画」に関することである。昭和に入り、子どもの映画熱が高くなったことから、その影響力について論議が起こっていた。

1枚の銀幕を大勢が同時に見ることのできる映画を教育や啓蒙に活用しようとした動きは大正中期からあり、昭和に入る頃には東京市の「児童映画デー」に代表されるように文部省でも後押ししていたし、脚本募集もさまざまに実施されていた。しかし、製作する映画会社の取り組みは盛り上がらなかった。水島は雑誌「芝居とキネマ」の寄稿で、当時の「児童映画」事情について次のように整理している。

「ストーリーにしても、どうしても単純淡味になり易い純粋の子供の世界を書いたものより、なるたけお芝居沢山な、つまり「子供に見せる子ども映画」ではなく「大人に見せる子供の映画」を作ろうとするのですから、製作者側にこうした態度が変わらぬ限り、いくら外の呼び声ばかりは高くても、結局理想的な児童映画など出来っこないのは当然です。
実際また純粋な子供のものというのはどうしても興行価値が薄いもので、よっぽどすぐれたストーリーでもない限り、どうも大人にとってはあまり面白くなさそうなので、ついそこにいろんなアクドイお芝居を入れて、いわゆる「お涙頂戴」というようなことになってしまうのですが、営利を主とする製作会社としては、これまた止むを得ないことでしょう。」(「芝居とキネマ」昭和4年3月号)

水島は「よき児童映画を書きたい」という夢を抱いて脚本家の道に進んだ。大学4年で脚本家デビューした作品「落葉の唄」(小笠原映研)も少女が主人公の作品だったし、その後入社した松竹蒲田での作品も少女もの、児童ものがほとんどで、それは「新派調」で「お涙頂戴」ものと呼ばれるジャンルであった。脚本家水島あやめの夢を叶えることはまだ、難しい時代環境であった。

「児童映画の事」(キネマと芝居)
「芝居とキネマ」昭和4年3月号に掲載された記事「児童映画の事」

2014.1.12

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