脚本家・水島あやめの絶頂期=昭和3年

2014年01月13日 蒲田脚本部

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1928(昭和3)年、サイレント映画の黄金時代を迎えていた。「キネマ旬報」は「現代劇では、日活が、村田実、阿部豊、溝口健二らに加えて、内田吐夢、田阪具隆らの新進監督の活躍がめざましく、一方松竹蒲田でも牛原虚彦、池田義信らのヴェテランと、島津保次郎、五所平之助、清水宏、小津安二郎らの第一線監督として進出し、無声映画末期の黄金時代到来を思わせるものがあった」(昭和35年11月号「日本映画作品大鑑4」129p)と概観している。

そしてこの年、水島あやめ(25歳)も脚本家として絶頂期を迎えている。1年間に7作が公開され、うち5作は原作も書いている。この年の蒲田撮影所の年間製作本数が86本。それを25名で脚本した。一番多かったのが伏見晁の11本で、野田高梧の9本、島津保次郎の8本につぐ脚本本数であった。ちなみに、野村芳亭、清水宏、村上徳三郎が各6本、北村小松が5本であった。添え物が多かったが、この時期、水島は「母もの」「少女もの」の第一人者と評価され、蒲田に不可欠な女性脚本家としての地位を築いていた。

公開作品の数が多くなるということは、公開時の観客数も多く、それに相応して城戸所長の評価と信頼も高かったということができよう。雑誌などで取り上げられる機会も増えるし、それにまつわるエピソードも多くなる。こうして、当時絶大な人気だった吉屋信子の小説「空の彼方へ」を原作とする大作を任されることにもなる。1924(大正13)年秋に大学4年で脚本家デビューをしてから4年。経済的にも社会的にも自立を掴んだ年であった。

2014.1.13

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