関東大震災と映画館

2014年01月02日 蒲田脚本部

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東日本大震災のあと、津波に襲われ跡形もなくなった街に呆然とたたずむ少女の姿に心が痛くなったことを思い起こす。関東大震災のあと、水島も東京の街角で、そうした姿を幾度も見たことだろう。あるいは当時21歳だった水島自身がそのひとりだったかもしれない。

幼いころから本好きで、吉屋信子の「花物語」に出逢ったことから小説家になる夢を抱いた少女は、高等女学校、大学時代を通じて創作に励む。そして関東大震災の前年、大学3年の5月に雑誌「面白倶楽部」の懸賞小説で、歴史小説の短編「形見の絵姿」が当選、全編が掲載され、小説家の足掛かりを掴んでいた。それからわずか4か月後に罹災。焦土と瓦礫の廃墟のなかで感じたことを、次のように記している。

「大正十二年の関東大震災をさかいとして、映画は、一そう、盛んになりました。
あのころ、私はまだ目白の学生で、池袋駅に近いところに、住んでいたのですが、あの大天災で、映画なんぞは、当分、復活出来ぬだろうといわれていたのが、大ちがいで、十日もたたぬうちに、もう駅前の常設館では、前の通りに開館し、しかも、毎日毎夜、お客は、押すな押すなの大入りでした。
すべてが荒涼としている天災のあとなど、ふだんよりも、もっとああしたうるおいを、人の心が求めているものだということを、私は、しみじみと感じました。」(『魚沼新報』昭和23年7月25日号)

劇場に群がる人だかり…入場を待ちわびる楽しげな顔…満足に顔を輝かせて、劇場をあとにする人々…笑顔の子どもたち、女性たち…。笑いと涙をさそい、夢と希望と憧れを届ける映画は、奈落の底で苦しむ人々に、つらくきびしい現実を忘れさせ、癒しのひとときを提供していた。映画の魅力に、水島は目を見張る。倒壊し焼失した大地の先に、水島は一筋の道を見出していた。

形見の絵姿

大学3年の時に、雑誌「面白倶楽部」の懸賞で当選した歴史小説「形見の絵姿」。
ペンネームは高瀬千鳥。

2014.1.2

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