水島あやめと関東大震災~2014年を迎えて~

2014年01月01日 蒲田脚本部

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昨年2013年は、水島あやめ生誕110周年であった。そして今年2014年は、水島が映画シナリオを学ぶ決心をして小笠原映画研究所に入った1924(大正13)年から数えて90年目に当たる。日本女子大学師範家政科の4年になった春のことで21歳であった。「水島あやめ」というペンネームを使うようになったのもこの年である。

水島が小笠原映研の門を叩くきっかけとなったのは、前年9月1日に関東一帯を襲った大地震であった。震災時、水島は大学に近い雑司ケ谷に借りていたちいさな家で、母とふたりで暮らしていた。その瞬間を、こう書き残している。

「―九月一日―
その日はほんとに蒸し暑い厭な日和でございました。丁度お昼の仕度に台所へ下りた私が、襷をかけ終わったと思う瞬間、グッッと家がゆすれました。
「あ、地震―」と云ったきり、まだ何か云おうと思っていた私は、たちまち起こった次の大震動に、思わずハッと息をのんでしまいました。私はすぐ六畳へかけ込みました。丁度二階に上がろうとしていた母は、黙ったまませわしく私を引っ張って、二人は梯子段の下に身をひそめたのです。
その時、家はズシンという物凄い音とともにたしかに上へ持ち上げられました。アッと思う暇もなく続いて起こる波のような水平動は小さな家を船のようにゆすりました。
ギーギーと悲しげに鳴る梯子段に取りすがったまま、二人はじっと動かずに居りました。そして、喰い込むように見つめて居た鴨居が抜けて落ちた時、ああもう駄目だと思いました。」(長岡高等女学校同窓会報 大正9年版の寄稿「あの日を追想して」)

九死に一生を得た水島は、自分の将来について深く考える。少女時代から吉屋信子にあこがれ、小説家になることが夢だった。しかし関東大震災の惨状と街の様子が、水島に現実的な路線を選択させる。それが映画のシナリオライターへの道だったのである。

2014.1.1

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