トーキー化は俳優たちにも大きな試練をもたらした。松竹キネマはトーキー製作に乗り出すに際して、蒲田所属の全俳優を対象に声の試験を行っている。水島は「魚沼新報」昭和23年8月8日号にこう書き残している。
「その時、第一番に成功だったのが(田中)絹代さんで、下関生れのあの人の、少しナマリのある言葉が、マイクをとおすとかえって魅力があるということがわかり、トーキー俳優として太鼓判がおされたわけでした。あの人は、人気の出かかった絶頂で、しかも、将来のトーキー界への成功が約束されたのですから、たれも彼もが、(絹代さんは、きっと大スターになれる幸運な人だ)と思ったものでしたが、やっぱり、そのとおりだったのです。」
サイレント時代の俳優は、ドラ声やキィキィ声であろうと、訛りがあろうと、またオンチであろうと関係なかった。しかし、トーキーともなると、声の良し悪しが容姿と同じくらいに重要になり俳優としての生命線となったのである。サイレントからトーキーへの移行の過程で、銀幕から姿を消していった男優女優は少なくなかった。絹代と間近で接していた水島は、絹代の幸運を語っている。
「田中絹代さんが、二十五年もの長い間、銀幕に活躍しとおすことの出来たのも、あの人の声が、トーキー向きだったということが、まず何よりもめぐまれたことだったからです。」
もちろん声だけであるはずがない。容姿の愛らしさに加え、演技力が備わっていたからであろう。ちなみに男優で声が良かったのは、気持ちのいい低音が魅力の小林十九二だったという。そして絹代と小林、それに渡辺篤で撮られたのが、日本初の本格的なトーキー映画「マダムと女房」(脚本北村小松、監督五所平之助)であった。
2013.12.21