「曲馬団の少女」のストーリー

2014年12月06日 松竹蒲田撮影所蒲田脚本部

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水島あやめ(24歳)が松竹蒲田脚本部に入って4作目の公開映画「曲馬団の少女」。「蒲田週報」大正15年10月24日号から、そのストーリーを確認する。

「或る湯の町にかゝつた曲馬團の踊子の幼ない君子と鈴子は真の姉妹も及ばない程の仲よしであつた、残忍冷酷な團長寅吉の鞭の下に両人はいつも抱き合つて自分等の親々の顔も名も知らない不幸を嘆いたのであつた。

此町へ湯治に来て居た東京の富豪松浦恭助夫妻は愛児道子を亡つたその心の傷みを癒す為めであつた。一夜夫婦は散歩の序に曲馬團の前に立つた、揚げてある踊り子君子の写真は餘りに死んだ道子に似てゐるではないか、見物に入つて實物を見ると瓜二つである、妻の清子は何うかあの子を養女にしてと夫に願つた、恭助も心動いて團長の寅吉に話して幾等かの金で君子を買ふ事となつた、君子と鈴子の別れは世にも憐れなものであつた、夫婦は喜んで君子を愛撫して東京へ歸つて行つた。

その跡に君子の母の春江は漸く我子の行衛を尋ね當てゝ来た、團員の一人からたつた今東京の松浦といふ人に貰はれて行つたと聞かされた、勿論住所などを知る由もなかつた、君子が松浦家に養はるゝやうになつてからは非常に幸福であつた、十年近く松浦家に仕へる茂平爺を相手に庭を飛び廻つてゐる、夫婦は道子が生返つて来たやうだと喜んでゐる、然しあ君は時々仲よしのお鈴の事を思ひ出し我身くらべてその憐れな生活を考へて暗い心になる、或日廣目屋がチラシを撒いていつた、君子はそれを拾つて見ると自分が嘗てゐた曲馬團が東京で開演するといふ廣告であつた、君子は鈴子に逢へる機會を得たのを喜んだ。

其夜君子は曲馬團を訪ふべく家を出やうとする處を母親に認められ両親から厳しく意見された、然しお君はお筋に逢ひたくつて堪らなかつた、遂に家を出て曲馬團の楽屋を訪れた、二女は懐しげに抱き合ふた、折柄お鈴は腹が痛いので舞臺に出られないといふのを團長は怒つて鞭打うとする、お君は團長に『私が代るから勘辨して』ととりなし、自分が衣装をつけて舞臺に出やうとする時追て来た松浦は止め、『舞臺へ出ればもう私の娘ではないぞ』と叱る、お君は決心して『私はお家を出されてもお鈴ちやんの代りに踊ります』と云つて舞臺へ走る、お鈴は松浦の前へ手をつき『小父さんお君ちやんの代りに私を叱つて頂戴そしてお君ちやんをいつまでも小父さん處に置いて頂戴』と涙ながらに頼む。

幼き者の純情は松浦の胸を強く打つた、彼はお君許したばかりでなくお鈴までも我家に引取つた、二人は樂しい日が續いた、或る日茂平か植木の手入をしてゐると垣根の處へ春江が来て聲をかけた、茂平は不圖振り顧ると十二年前男を拵へて家出をした娘の春江であつた、春江は『お嬢様は私の子だから一ト目逢はして呉れ』と涙ながらに頼んだ、爺は默つて考へ込んでゐるが『家の嬢様はお前の娘ぢやない』と云ひ切り窃かに幸福なお君の生活を見せる、春江は喜んで然し涙を流して淋しく去つた。」

2014/12/06
no.191

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