小笠原プロダクション

2014年05月25日 小笠原プロダクション

水島あやめが脚本家デビューした小笠原プロダクションについて確認しておきたい。

子爵で海軍中将の小笠原長生に二人の息子がいた。兄は長隆、弟は長英と言い、ふたりが小笠原映画研究所を立ち上げた。大正12年6月のことである。兄・長隆(明治33年6月26日生まれ)は明峰と名乗り、所長に就任。弟・長英(明治35年7月26日生まれ)は三善英好と名乗り、主に監督を担当する。長隆(明峰)は学習院を出て、その後明治大学で学んでいる。映画好きの青年で、大学の同級生に、のちに大スターとなる鈴木伝明がいたという。

長隆(明峰)は、大正10年に読売新聞の映画脚本募集で一等になり、翌11年には「白樺」の同人近藤経一の紹介で、ボーイ・スカウトの宣伝映画「愛の導き」を撮る(公開は翌12年3月)。主演は古川緑波、スタッフには大正活映のメンバーが参加している。完成した映画を帝国劇場で三日間上映してみると、思いのほか評判がよかった。

これで意を強くした明峰は、自宅すなわち小笠原邸の敷地内にスタジオを作り、本格的な映画製作に乗り出す。それが小笠原映画研究所であった。そして大正12年11月に改組し、小笠原プロダクションと改称した。当時の住所は、多摩郡代々幡町幡ヶ谷九番地。甲州街道と京王線の初台駅にほど近い住宅地だったようである。

小笠原映画研究所が設立してわずか3か月後、未曾有の大震災、関東大地震が東京を襲う。地震で大きな被害を受けた松竹蒲田や日活などは、関西に製作拠点を移した。東京郊外の小笠原映画研究所は被害も少なかったようで、そのまま活動をつづけていた。そして震災半年後の大正13年春に、水島あやめ(21歳)がシナリオを学ぶために通い始めたのである。

2014/05/25

PAGE TOP